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「死ねばいいのに」と思う気持ち

先日、高校時代の友人Aと長電話をした。

50代ともなると、会話の中に必ずと言っていい程、親の介護問題が挙がる。

幸い私は今までに介護というものをしたことがない。実母と義母は存命だが、現在のところは介護が必要という状態ではない。

Aは昨年実父を亡くし、実母が最近少々危うい(認知症という面で)感じがしてきたとのこと。実母は他県の実家で息子(Aの弟、独身、軽い知的障害有)と二人暮らし。80歳を過ぎてまだ車の運転をしており、危なくて仕方ないので免許返納して欲しいのだが、田舎で車がないと暮らしづらい。また、知的障害のある弟が母親の運転で買い物に行きたがり、行かないと暴れるので困っているそうだ。

 

そしてAが言った。

「お母さん死んでもそんなに悲しくないと思う。むしろホッとするだろうな。」

 

お母さんが亡くなったら知的障害の弟さんの面倒は誰が見るの?と聞いたら、施設に入れると。

できることなら、弟も早く死んでほしいと思ってる・・・そうだ。

 

お母さんが長生きして認知症になったら、たとえ施設に入れたとしても弟と母親の二人を自分一人で抱えることになる。経済的にも無理だ、と・・・

Aは結婚をし子供が二人いて、今は困ってはいないがまだ学生の息子たちにはこれからもお金がかかる。

 

更に、こうも言ったのだ。

「親の介護って、いざ亡くなった時に遺族が悲しいなかにも『これで介護から解放される』ってホッとする気持ちになるためにあるんじゃないかな?そう、親の介護とか認知症は、死んだときの悲しい気持ちを半減させる効果がある。」

 

こう言うAに、私は「なるほど」と妙に納得してしまった。

 

折も折、ちょうどこんな本を読んでいた。

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50代の独身男である著者が、80歳からの数年間、アルツハイマー認知症を患った母親を自宅介護した奮闘記である。

この中の一節にこんな文章がある。

 

私は精神のバランスを失いつつあった。この頃から、何かと「死ねばいいのに」という独り言が出るようになった。

     中略

主語はない。

が、明らかだ。

 

「母が死ねばいいのに」だ。母が死ねばこの重圧から自分は解放される。が、それを口に出すのはためらわれるので、主語なしの「死ねばいいのに」なのだ。これだけ自分で自分を分析できるのに、それでも口を突いて出る「死ねばいいのに」を止めることができなかった。

 

著者の名誉のために言っておくと、著者は大変献身的に母親を介護してきた。その奮闘ぶりは読んでいて胸が詰まるほどである。

本の終わり時点で母親は亡くなっていないので、いざ亡くなった時にどんな気持ちになるのかは書かれていない。果たして、ホッとする気持ちがうまれるのだろうか?

 

この本にも書かれてあったが、介護は日々の大変さだけでなく、経済的も家計を圧迫する。

それらから完全に開放されるには、死んでもらうしかないと考えるのは、ごくごく自然なことだと私は思う。家族に死んでもらいたいなんてひどい!などと言う人がいたら、綺麗事言うな!と思うだろう。

 

亡くなることによって介護から解放された人が、のちに鬱になることがあるそうだ。もっとできることがあったんじゃないかとかの後悔に苛まれるそうで・・・

介護を経験したことがない私が言ってはお叱りを受けそうだが、そういう気持ちが信じられない。解放感に満ち溢れて当然なのに、何故なんだろう?

私は母とは良い関係である。だが、親を看取るのが子供の務めであると思っているから、たとえ介護時期がなかったとしても、母が亡くなったら悲しい気持ちだけではなく安堵の気持ちが生まれるに違いないと思っている。ましてや壮絶な介護があったら、言わずもがな・・・だ。

 

この先、私の身に介護をする日が訪れるのか?その時、果たしてここに書いたような気持ちになるのだろうか?